題名:「はじまりは、いつも雨」

「はじまりは、いつも雨」 序

「...うっ、うぅん、ぅっく...」

.........

『ヤメテェー! ひぎぃ! あぐぅ! 
  おねがい、もう、もう うごかさないでぇ、もうゆるしてぇ~
  アゥッ! イギィィ! イッ、イタイィ、いだいよぉ、ハゥゥ~!
  これいじょうされたら、わたしのこわれちゃうぅ~!
  おかしくなっちゃうよぉぉぉ! ぐふゥゥ、ぬいて、ぬいでぇぇ、はぐゥ!
  おねがいです。 おねがいします、たすけて、たすけてぇぇぇ!』
『ホホホホホ、涎や涙でグチョグチョにさせて、本当に無様な顔ですね。
  美人が台無しですよ。そんなだらしない顔をあまりこちらに向けないで下さい。
  見てるこっちが恥ずかしくなりますよ。
  さあ、お前達、この汚らわしい小娘の穴を犯し尽し、
  熱き思いを注ぎ込んで上げなさい。ホッホッホッホーーッ!』
『イヤァーー! やめてっ! もういれないでぇ、もう、ハウゥゥゥゥ!』

.........

「ハッ!」
流璃子は突然、カッと瞳を大きく開き、飛び起きた。
「はぁ、はぁ、ふぅ......」
そして、まだ虚ろな表情で周りを見回し、自分がどこにいるのか確認した後、
乱れて顔に掛かった髪を掻き上げ、その手を額に押し当てたまま、
『夢...また、あの夢を見たのね。』
と、心の中で少し安心したようにそう呟く。

流璃子が眠っている間、ずっと側にいた霊気は、
ベッド代わりにも使っているソファーに座ったまま動かない流璃子に歩み寄り、
心配そうに話し掛けた。
「大丈夫か? 流璃子。随分と酷くうなされていたぞ。汗もびっしょりかいて。」
流璃子は、その言葉に初めて反応を示し、俯き加減で垂れたままの頭を起こして、
寝汗を掻き熱っぽい顔を霊気に向ける。
「あっ! 霊気、ゴメンナサイ。私、何時の間にか寝てしまったのね。」
「そんな気にしなくてもいいよ。最近、色々あって、疲れが溜まっていたんだろ。」
霊気は、しおらしく謝る流璃子にニッコリ微笑みを返す。

ベルゼバブとの戦いの後、すぐ流璃子は、まだ体調も戻っていないのにも関わらず、
ゴッドサイダーとして、霊気と共に、
今だ人間世界で暗躍し様々な悪影響を与え続けるデビルサイダー達を滅するため、
世界中を奔走し、戦い続けていた。
だが、ここ最近、デビルサイダー達が巧妙に世に潜んでいる上、
どうやら霊気達の動向が察知されているらしく、
思うように成果が出せないばかりか、逆に霊気達の方が襲撃される日々を送っていた。
また、デビルサイダー達が昼夜問わずに襲って来る為、
霊気達は廃工場やあばら家等の人気のいない場所を活動の拠点とすることを余儀なくされ、
充分な休養が取れない霊気達の体力と精神力は著しく疲弊していた。

「本当に御免ね。私、ちょっと気が緩んでたね。
  今度は私が見張りをするから、少し休んで? 霊気もすごく疲れてるでしょ。」
流璃子は慌てて、ひざ掛けを畳んで立ち上がり、ソファーを霊気に譲ろうとするが、
霊気は座ろうとせず、やさしく微笑みながら流璃子をいたわる言葉を返す。
「俺の事は心配しなくていいよ。それより、流璃子、結構汗かいたみたいだから、
  シャワーでも浴びてきたらどうだ。それとも、もう少し休むか?」
「ありがとう。でも私、本当に大丈夫だから、霊気こそ、気を遣わないでね。」
「本当に大丈夫か?」
「うん!」
流璃子は、これ以上霊気に心配掛けまいと、少し無理をして表情を明るくさせ、
霊気に微笑みを返しながら肯く。
「そうか、なら、いいんだが。」
霊気は、流璃子の様子がおかしいことに気付き、気に掛かったが、
流璃子の気遣いを無にしないよう、敢えてそれについては何も聞かずに、そう言うと、
ソファーの隅に丸まっているハンドタオルを拾い、
それを近くの台に置いといた洗面器の中の水に浸した。

流璃子は、ハッとした。
目が覚める前にそのタオルが額からズレ落ちていたらしく、
また、思考がまだ不鮮明で周りにまで意識が行き届いていなかったため、
それまで気付いていなかったが、タオルを洗う霊気の姿を見て、
霊気が、夢にうなされている自分の苦しみを少しでも和らげる為、
濡れたタオルを額に乗せ冷やしてくれていたことを知った。
そして、自分が最初ソファーに横になった時は、
ひざ掛けを掛けていなかったことも思い出し、
流璃子は霊気の優しさに胸が熱くなっていくのを感じる。

霊気は僅かに水気が残る程度にタオルを絞り直して、
「それじゃあ、せめて、これで汗くらい拭いといた方がいいぞ。
  汗かいたままじゃ気持ち悪いだろう?
  それに、風邪引くから服も着替えた方がいいぞ。」
流璃子に手渡す。
流璃子の瞳には、タオルを差し出す霊気の姿と、
小さい頃、霊気や行仁と離れ離れに暮らすことが悲しくて
鬼哭寺を飛び出した自分を慰めるため
花で作った指輪を泣きながら差し出す幼い霊気が重なって見えた。

「ありがとう。霊気。やっぱり霊気って優しいね。」
流璃子は汗も拭かず、渡されたタオルを胸の前で、
キュッと包み込むように両手で握り締める。
『そう、体は大きく逞しくなったけど、霊気のそういう素敵な所は、
  ずっと大切にしてた思い出のレイキちゃんのままでいてくれたことが私、本当に嬉しい。
その純真で真っ直ぐな瞳や、見ている方も幸せにする柔和な笑顔が、たまらく好き。』

霊気の優しさに触れたことにより、
流璃子は、先程見た悪夢のことが頭から消え去り、代わりに、
幼い頃、鬼哭池のほとりで交わした霊気との約束とキスを思い出していった。
『再会した時、霊気は、あの泣き虫レイキちゃんとは思えないくらい
  カッコ良くなっていたけど、私、目を見ただけで、すぐに霊気だって分かったよ。
  だって、私にとって、それくらい霊気との思い出は大事な物なの。
  ねえ? 霊気覚えてる? ずっと昔の幼い時にした、あの約束とキス。
  鬼哭池の水面に朝の光が射し、キラキラと輝いていて、
  まるで私達を祝福してるみたいだったね。あの時私は本当に幸せだった。
  あの頃みたいに、霊気と一緒に2人で平穏に暮らせたらっていつも思ってた。
  霊気、私、貴方が好き。あの頃からずっと...。』
心を癒し、温めてくれる言葉を紡いでいく霊気の口を見てると、
流璃子は霊気と口付けをしたくなり、頬をほのかに朱に染め、
桜の花びらのような唇を物欲しそうに僅かに動かした。

柔らかな空気と時間が、見詰め合う2人の間を流れていく。

流璃子の潤いを増した瞳を見て、流璃子が今、何を望んでいるか気付き、
霊気も流璃子を抱きしめ唇を重ねたいという衝動に駆られるが、
唐突なことに心の準備が出来ていなく、また、照れ臭さから、
余計なことを口走ってしまうのだった。
「そうだ。さっきは悪い夢でも見たのか? 酷いうなされ様だったけど、どんな夢を...」
沈黙がこれ以上続かならないよう間を持たせるために、
また、流璃子の不調を気遣って言った台詞なのだが、選んだ言葉が悪かった。
霊気のその言葉を聞いた瞬間、
流璃子は、忘れかけていた『悪い夢』のこと思い出し、表情を曇らせ、
そして、陰りが入った顔を少し俯かせて黙ってしまう。

霊気は自分の不注意な言葉を恥じるが、
気まずくなった、この空気を変える言葉や行動が思い付かず、
ただ申し訳無さそうに頭の後ろを2回掻いた後、
「俺、ちょっと洗面器の水替えてくるから、その間に服でも着替えたらどうだ?
  あと、ちゃんと汗も拭いとけよ!」
と言い残し、そそくさと部屋を出て行く。

「あっ!」
流璃子は、霊気のその後ろ姿を、何か言いた気に、口を僅かに開きながら見送り、
そして、霊気が完全に部屋から出てドアを閉めると、
自分でも聞き取れないくらい小さな声でポツリと呟くのだった。
「霊気のバカ...意気地なし...」

そして、部屋に1人取り残された流璃子は、気分転換も兼ね、
外の様子を窺い知ろうと、窓の方にゆっくり足を運んでいく。
だが、昨夜遅くから降り続けている激しい雨により、
晴れていれば緑が多く心を和ます景色は、
ほとんど、かき消され、殺伐なものに変わっていて、
その物寂しい風景は流璃子の気分を更に滅入らせた。
「そう言えば、あの日も、こんな激しい雨が降っていたっけ...」
窓ガラスに片方の掌を軽く当て、何気無く呟いたその言葉は、
流璃子自身の心をより深い所へと落とすことになるのだった。

『"悪い夢"か...、そう夢だったらどんなに心救われる事だろう...。
  夢だったらどんなに凄惨なものでも耐えられるし、心や頭からも追いやることも出来る。
  でも、あれは悲しいほど惨めで惨たらしい現実。
  そう、逃げることも、忘れることも出来ない現実の出来事。』
窓に当てていた手は、いつの間にか強く握られ、
窓を割りそうなほど強く押しつけていた。
『あれから1年も経つのに、まだあの時のおぞましい感触や記憶が、
  体や頭に纏わりつき少しも離れない。』
現実に起きたその悪夢を思い出しただけで、体中に寒気が走り、
流璃子は、ガクガクと小刻みに震え出す体を温め、慰めるため、
自らの体を抱きしめる様に、肩や腰に腕を絡める。

『寒いよぉ...苦しいよぉ...お願い誰か助けて!
  霊気助けて? お願い! 私の凍てついた心を温めてぇ!』
あまりの心細さと怖さに、流璃子は心の中で何度も叫ぶが、
その言葉は更に流璃子の心を締め付けた。
『今すぐ霊気に傷付いた心を癒す優しい言葉を掛けて欲しい。
  今すぐ抱きしめて欲しい。だけど...でも、あの夢のことだけは言えない。
  霊気のこと愛してるし、信頼しているけど言えないよ。
  愛しているからこそ、霊気、貴方だけには知られたくない。
  優しい貴方でも、あの日のことを知ったら、私のこと穢れた女だと思うわ。
  貴方にそんな目で見られたら、私、もう生きていけない。
  霊気、貴方にだけは嫌われたくないの。』

終に流璃子の頬を一筋の涙が伝う。
そして、片手を窓ガラスに掛けたまま、崩れるように、その場にへたり込んだ。
『処女を失っていることは、いつかは霊気に話さなければならない。
  すごく辛くて出来る事なら黙っていたいけど、その覚悟は出来ている。
  でも、あのことは、あの日の弱かった私に起きた
  悪夢のような凄惨な現実だけは、話すことは出来ない。
  誰にも触れることの出来ない所に封じ込め隠し通すのよ。
  忘れようとしても忘れる事の出来ない、あの現実の悪夢だけは。』

...

.........

...............

一年前、ロサンゼルス郊外。

昨夜から降り続ける雨の中、
流璃子は、バイト先から自分の部屋があるアパートへの帰路を、とぼとぼと歩いていた。
いつもなら夜の9時には家に着くのだが、
その日は、バイト先で1人無断欠勤した人がいた為、バイトが長引き、
すでに今は11時を回っており辺りは暗く、道行く人もまばらだった。

「ああ、もうこんな時間なのね。早く帰って、明日提出のレポート仕上げなきゃ。」
流璃子は自分の腕時計を見ながら、そう独り言を呟き、なるべく早く歩こうと思うが、
激しい雨がなかなかそれを許してくれない。
バイト先から流璃子が借りているアパートまで、足早に歩いても30分以上掛かり、
また、降りしきる雨が視界のほとんどを隠し、1人の世界に入り易くなっていたため、
自然と、色々な事に思いを巡らせることになるのだが、
雨の夜と言う陰鬱な景色により、頭に浮かぶのは、
流璃子の気持ちを深淵へと、いざなうものばかりだった。

まず、最初に頭によぎったには、両親の死の光景だった。
それは鬼哭寺を離れ、アメリカのメーン州で両親と3人で暮らし始めて、
1年も経たずに起こったことで、
流璃子はまだ幼かったが、その日の事は鮮明に覚えている。

その日も雨が降っており、流璃子は、
夕食の支度をしている母親の代わりに買って出た近所へのお使いを無事済まし、
得意満面な顔で傘を回しながら家へ向かい歩いている時に事件は起こった。

家に近付き、流璃子が少し足を速めようとした瞬間、
2人の男女の悲鳴と幾つもの銃声と町に響く。
流璃子はすぐにその声の主が自分の両親だということに気付き、
傘を捨て、家へと走り出した。
黄色いレインコートをバタつかせながら、やっとのことで家の前に辿り着くが、
その瞬間、家から飛び出して来た2つの黒く大きな物体が流璃子の小さい体にぶつかり、
流璃子は大きく吹き飛ばされ水溜りに叩きつけられてしまう。
その大きな物体は、目と口の所に穴が開いたニットの覆面を
被った全身黒づくめの2人組みの男で、手には拳銃が握られていて、
幼い流璃子にも、この2人が自分の両親に何かした事がすぐに分り、
気丈にも2人を睨みつけた。
その2人は、水溜りにうずくまりながらも敵意の視線で見上げる流璃子を一瞥し、
口元に卑しい笑みを浮かべると、そのまま道に停めてあった車に乗り、走り去って行った。

流璃子は痛みを堪え立ち上がると、2人を追うとせず、
ただ両親の無事を祈りつつ、自分の家に入っていく。
流璃子の目に飛び込んできたのは、火に掛けられたままのシチュー鍋、
真っ赤に染まったリビング、
そして、無残な姿へと変わり果て床に横たわる両親の体だった
「イッイッ、イヤァァァァァァァァーーー! パパが、ママが、うわぁ~~~ん!」

両親を殺した犯人は、結局、捕まらなかった。
いや、警察に捕まえる気が無かったと言った方が正しいだろう。
警察の見解では突発的な押し込み強盗犯とされ、
手掛かり不足を理由に、捜査はすぐに打ち切られたのだ。
幼い流璃子の目から見ても、家の中が全く荒らされていないことから、
両親を殺した犯人は強盗犯ではないことは明らかで、
警察の怠慢としか言いようが無かった。

両親を亡くしてからの人生は思い出したくない位、悲惨な出来事の連続だった。
両親の葬儀が終わると、すぐに流璃子は政府の者達に研究所へ無理矢理連れていかれ、
外界と完全に隔たれた部屋で来る日も来る日も様々な実験を受けさせられた。
そして半年後、研究所から解放され両親との思い出が詰まった街に戻るが、
流璃子を待っていたのは、何者かに無残な程荒らされた家と、
蔑みと畏れが入り混じった冷たい視線だった。
以前はよく面倒を見てくれた近所の大人達も、
よく一緒に遊んだ友達も、誰1人も流璃子に近づこうとしなかった。
誰も引き取り手がいなく、また行仁和尚への連絡先が分からなかった流璃子は、
養護施設に入ることになるのだが、そこでも周りの流璃子への対応は変わらず、疎まれ、
邪魔物を押し付けるように数え切れない程多くの施設をたらい回しされることになった。

だが、それ以上に惨めな思いをしたのは、
両親の事件をもう一度、捜査をし直して貰おうと警察署へ掛け合いに行った時だった。
流璃子は担当の警察官に必死に訴えかけるのだが、
聞き流すかのように、のらりくらりとかわされ書類1つも書かずに押し返されたのだ。
悔し涙を流しながら警察署を後にする流璃子を見送る警察官が笑いながら
話していた台詞が今も胸に深く刺さったまま流璃子を傷つけ続けている。
「化け物を殺しても、殺人罪になるのかね?」
「逆に、そいつに感謝状と勲章でも贈るべきなんじゃないか?」
「全くだ! アハハハハ!」
その時は、話の意味が分らなかったが、
話し振りから幼い流璃子にも自分の両親が馬鹿にされていることは分かった。
しかし、まだ子供で、しかも誰も味方がいない流璃子に出来ることなど何もなく、
ただ唇を噛み締めて、その場から逃げ出すしかなった。

幼い頃は、何故、自分がそんな目に合うのか流璃子は分からなかったが、
ジュニアハイスクールの卒業と同時に、養護施設から放り出されることになり、
荷物を整理していた時、偶然、母親の日記から流璃子宛の手紙を見つけ、
それを読んで、すべてを理解するのだった。

その手紙には、自分達が、鬼哭一族という魔王の血を引く
普通の人間には無い力を持つ者達で、その血は流璃子にも流れていること、
そして、今は目覚める兆候すら全くないが、
流璃子には、その鬼哭一族の中でも更に特殊な力を持つ、
「鬼哭一族の巫女」としての力を秘めているかもしれないと書かれており、
また、鬼哭一族は何時の時代も、その血と力のため、人間達に疎まれ続けていて、
何時か、自分達も周りの人達に迫害され、命を狙われるかもしれないとも記されていた。

流璃子はこの時、警察官達のあの台詞の真意が知り、
生まれて初めて、殺意を覚えるほどの激しい怒りを感じた。
そして、流璃子の中で、黒く強大な魔王の血が目覚めようとしたのだった。
だが、母の手紙の最後に書かれていた流璃子へのメッセージを読んで、
その怒りや魔王の血は一瞬にして消え去っていった。
母の手紙の最後にはこう書かれていたのだ。
「流璃子がこの手紙を読んでいるということは、
  私達はこの世からいなくなっているのでしょうね。
  もし、私達が何者かに殺されて、そして、その犯人が人間だったら、
決して恨んでは、駄目よ。
  人間は、自分の理解を超えた者に恐怖を抱く弱い生き物なの。
  だから、パパもママも、そして流璃子のご先祖様達は、そんな弱い人間を守るため、
  命がけで戦ってきたの。流璃子も、他の人を守れる強い人になってね。
  そして、周りに負けず、いつまでも、優しい心を忘れないでね。
  それがパパとママの唯一の願いです。
  出来れば、流璃子には鬼哭一族の血などのしがらみから離れ、
  普通の女の子として生きて、普通の幸せを掴んで欲しかったのに、
  ご免ね、流璃子。貴方を最後まで守れなくて。
  明るく優しい流璃子が私達の自慢で、何よりも愛しかった。」

母親は復讐など望んでおらず、ただ流璃子の幸せだけを願っていたのだ。
それなのに流璃子は、危うく両親の想いを踏み躙る所だった。
この手紙を読み終えた時、母親の優しさと強さ、
そして、自分の心の貧しさに流璃子は涙が止まらなかった。

手紙に行仁和尚への連絡先も書かれていたのだが、
流璃子は鬼哭寺に戻らず、ロサンゼルスにあるハイスクールの衛生看護科に進学し、
アパートを借りて1人で暮らし始めた。
本当は1人で生きていくことの心細さに、
すぐにも行仁和尚や霊気のいる鬼哭寺に戻りたかったが、
このまま戻っても、周りの環境に負けて逃げているだけで、
それは、両親の期待を裏切ってような気がし、
また霊気達と再会する時、胸を張って会える様にアメリカで残り、
1人で生きていくことを選んだのだ。

今も住んでいるロサンゼルスに移ってからは、
それまで何処にいっても冷たかった周りの目や反応は不思議と穏やかなものになり、
また鬼哭一族の力が目覚める気配もなく、普通の少女としての平穏な日々が続いていた。

そんな過去のことを、ぼんやりと思い出しながら、物思いに耽っていると、
流璃子は、いつの間にか自分が部屋を借りているアパートの前に辿り着いていた。
そのアパートは、お世辞にも立派とは言えないもので、
流璃子の借りている部屋は、キッチンとユニットバスはあったが、部屋自体は非常に狭く、
また、コンクリート剥き出しの壁一面にひび割れが入っている粗末なものだった。
両親が蓄えを十分残してくれていたので、もっといい部屋に暮らそうと思えば、
出来たのだが、なるべく1人で強く生きていこうと思い、
そのお金は学費以外には使わず、他の生活費は自分で稼ぐことにしたのだ。
そのため、自然と生活は質素な物にならざるを得なかったが、
流璃子は、そんな生活に不満は1つも無く、また、それなりに幸せも感じていた。

流璃子は郵便受けを覗いてから、
建物の外に取り付けられている錆びた階段を登り自分の部屋の前に来ると、
自分の部屋から光が漏れていることに気付く。
『あれ? 何で明かりが付いているんだろう。こんな部屋に泥棒が入る訳無いし、
  朝急いで出たから、消し忘れたのね。』
流璃子は、何か引っ掛かったが、そう自分の中で結論付けて、
鞄から部屋の鍵を取り出し、
そして、玄関の扉を開けて、誰も待つ者もなく、生活に必要な物を除くと、
ラジオと小さな本棚、そして一輪挿しの花瓶しかない味気ない部屋に向かい、
「ただいま~!」
と告げながら部屋の中に入っていった。
すると、次の瞬間、返って来る筈の言葉が寝室の方から聞こえて来るのだった。

「ええ、お帰りなさい。遅かったですね。」
流璃子は、この予想だにしなかった出来事に、背筋が凍る程の恐怖を感じるが、
逃げずに部屋の奥へと足をゆっくりと進め、震える手で、
キッチンがある狭いリビングと寝室を繋ぐ間仕切りの扉を僅かに開け、
その隙間から中の様子を伺った。
寝室の中には、黒い外套を着た、男とも女とも言えぬ中性的な魅力のある麗人が1人、
ベッドを椅子代わりに腰掛け、本を読んでいて、
流璃子と目が合うと、ニコリと微笑みを返し、当然のように親しく語りかけてきた。
「あまりに遅いので、勝手に棚から本を1つ拝借させて頂きましたよ。
  このラブロマンスの小説、無名作家の物ですが、なかなか面白かったです。
  センスが良いのですね。ラストが気になるので、2、3日ほど借りても宜しいですか?」
その麗人は初めて会った見ず知らずの者で、
普通の女性なら変質者か泥棒が部屋にいたと大声を出して騒ぐ所だが、
流璃子には、その麗人が何者であるか、ある程度、予想できていた。
『ついに、畏れていた日が来たのね。』
その麗人は、変質者でも泥棒でもなければ、人間ですらない人外の者だろう。
そう、その麗人は母の手紙に書かれていたデビルサイダーと言う者なのだろう。
鬼哭一族の血による力に目覚めておらず、瘴気と言う物も分からなかったが、
流璃子はその麗人の穏やかな物腰の奥に黒く強大な何かを感じ取っていた。
その麗人は、流璃子が恐怖により寝室に入ることも逃げることも出来ずに
間仕切りの扉の所で固まっているのを見ると、
「どうか致しましたか、流璃子さん?」
更に顔を柔和にさせて微笑みながら、そう尋ねベッドから立ち上がる
流璃子は麗人の言葉と動きにビクリと体を震わし、
反射的に肩から下げている鞄に手をやった。
この行動は、中に何か武器になる物が入っている訳でなく、
鞄の中には、霊気から貰った花の指輪を押し花にして作った栞と母の手紙が入っていて、
不安と恐怖で押し潰されそうな流璃子は、これらを心の支えにしようとしたのだ。
『霊気、パパ、ママ、お願い。私を見守っていてね。』
そして、大きく1つ息をついてから、寝室の中に入り、麗人の方に歩みを進めていく。

流璃子は、なるべく気丈な態度で歩こうとするが、
足は、なかなか思うように動かず、部屋は狭い筈なのに麗人との距離は、
すごく長く感じられた。
流璃子は、東洋人の女性として背の高い方なのだが、
その麗人はそれ以上に長身で流璃子より頭1つ程高く、
すぐ目の前の距離で向かい合うと、流璃子は自然とその麗人を見上げることとなった。
また、その麗人の表情は穏やかなのだが、流璃子を見下ろす瞳は氷のように冷たく、
流璃子は、完全に気圧され、何もされていないのに足はガクガクと震え、
そのまま後ろに倒れ尻餅を突きそうになった。
その麗人は、そんな流璃子の様子を見て、口元に僅かに笑みを浮かべる。
流璃子は、唾を飲み込み、もう1度鞄に手をやり握り締めるように掴むと、
意を決し、その麗人に向かい言葉を発した。
「貴方は、誰? 何が目的で私の部屋に勝手に入ったの?」
これ以上相手に飲まれない様に、流璃子は、なるべく強気な台詞を選ぶが、
それを言う口が弱々しく震えていては、流璃子をより哀れに見せるだけで、
意味を為していなかった。
「これは、失礼。自己紹介がまだでしたね。私の名はベルゼバブ。
  貴方のデビルサイダーとしてのお父上であらされる魔王様の命により、
  流璃子さん、貴方をお迎えに上がりました。
  魔王様は、自ら直接出向き貴方を迎えに来たいと仰っておられたのですが、
  忌わしき大天使ミカエルの封印により、魔王様のお体は、
  今もなお地中深くで、眠りにつかれているため、私が替わりに参りました。」
その麗人、ベルゼバブは片膝を突き深々と頭を下げて、流璃子の問いに答えた。
流璃子はベルゼバブの動きに驚き、一瞬後ろに転びにそうなってしまう。
『やっぱりデビルサイダーだったのね。しかも、ベルゼバブだなんて...』
ベルゼバブと言ったら、宗教関係や悪魔関係の知識に疎い者でも知っているくらい、
有名で大物の悪魔である。
流璃子は、この状況から逃げることの困難さを思い知らされるのだった。

ベルゼバブは挨拶が終わると、また立ち上がり、
僅かに後退りをして怯える流璃子に微笑を向けた。
「しかし、魔王様の高貴な血を引く、ご息女とあろうお方が、
  随分と粗末な生活をなされていたのですね。
  でもご安心下さい。これからは何1つ不自由な思いはさせません。
  流璃子さん貴方には、魔姫(デモノプリンセス)としての
  優雅な新しい生活が待っています。
  さあ、参りましょう。
  私達デビルサイダーは皆、貴方が来る事を心待ちにしております。
  そして、共に、世界中に災厄を撒き散らし、人間どもを苦しめ、
  ゴッドサイダーを皆殺しにしましょう。魔姫 流璃子さん。」
ベルゼバブは、そう言うと流璃子へ手を差し伸べた。
もちろん、流璃子の中で答えは決まっていたが、ベルゼバブは発する重圧により、
それが声として口から出なかった。
「さあ、参りますよ。流璃子さん? どうなさいました?」
ベルゼバブが急かす様にもう一度問い掛けてくると、
流璃子はベルゼバブと視線が合わないように顔を俯かせて震える口を動かしていく。
「行かないわ。私は貴方と行かない。」
「それは、どういうことなのでしょうか?」
問い質すベルゼバブの声に僅かに怒りが感じられる。
「私は貴方達の仲間にならないと言っているの!」
流璃子は、両手を強く握り締め声を荒げて叫ぶように答えた。
「何故です? 流璃子さん?
  失礼ながら貴方が、どのような生活をなされていたか調べさせて頂きました。
  随分と、お辛い思いをなされたご様子で、私が、もっと早く復活していれば、
  流璃子さんにそのような思いさせずに済んだかと思うと胸が痛みます。
  ですから、共に流璃子さんを蔑み虐げた人間どもに復讐しましょう。
  貴方から幸せな生活、いえ全てを奪っていった人間達が憎いでしょう。」
「私は復讐なんてしない、私は誰も憎んでなんかいないわ。」
「そんなことはない筈です。」
ベルゼバブの口調には、穏やかだが強い力が籠もっていて説得力がある。
「確かに、昔は人間も世の中も全てを恨み憎んでいた。
  でも、ママの手紙を読んで、そして、パパとママの想いを知って変わったの!
  だから、今は誰も憎んでいない! 復讐なんかしないわ!」
流璃子は俯かせていた顔を上げ、ベルゼバブの顔を見据えた。
「流璃子さん、それは嘘です。そう思うのは、ご両親の事を大切に思っているだけで、
  貴方の本当の意思ではない筈です。
  貴方は心の奥では、未だに両親を殺した者や、
  犯人を捕まえようとしない警察官達を今でも恨んでいるのでしょう?」
ベルゼバブは、流璃子の心の動きを全て見透かしているかのように瞳の奥を見つけ返す。
ベルゼバブの言う通り、今日みたいな雨の激しい日には時々両親の死を思い出し、
怒りや恨みなどの黒く激しい感情が体を満たしていく事がある。
そういう時は母の手紙を思い出して、その醜い感情を静めるのだが、
結局、それは理性で押し殺しているだけで、消えた訳ではない。
常に野獣のような感情が心の奥で息を潜めているのだ。
自分の中に、母の願いを守ろうとする自分の他に
黒い感情に囚われて母の思いに背こうとする自分の2人の自分がいることも、
その間で心がいつも揺れ動いていることも、
初めて会ったベルゼバブに見抜かれてしまったのだ。
「さあ、魔王様や私達と一緒に、今のこの世の全てを破滅させて失楽園を築きましょう。
  魔王様も流璃子さん貴方が来る事を心待ちにしておりますよ。」
流璃子は、心の奥に秘めた感情の動きを読まれて、激しく動揺した。
そして、無謀とも言える強がりを見せてしまう。
流璃子は、ベルゼバブが微笑みながら更に前に差し出してきた手を、
平手で叩いて払い、少し上ずった大きな声で怒鳴りつけた。
「しつこいわね。仲間にならないって言っているでしょ!
  いいから早く私の部屋から出て行きなさい!」
流璃子は、一瞬にして表情が消えたベルゼバブの冷徹な顔を見て、
背筋に悪寒が走るのを感じ、
怒りに我を忘れたとはいえ自分の取った軽率な行動を悔やんだ。
外の雨音を掻き消す程の重苦しい空気が2人の間を流れ部屋を満たしていく。
ベルゼバブの氷のような目に見つめられるだけで、
流璃子の背中や脇に冷たい汗が幾筋も流れ、息苦しさに呼吸も乱れていった。

流璃子が体を小刻みに震わせ始めると、
ベルゼバブは流璃子の緊張を解くように、突然、優しく微笑んだ。
恐怖で過敏になっている流璃子は、ベルゼバブのその僅かな動きにもビクつき、
後ろに一歩さがり身構えてしまう。
「いいでしょう、分かりました。そこまで言われるのでしたら、
  貴方を仲間になるようお誘いすることは諦めます。
  金輪際、貴方を魔姫として仲間に引き込もうとすることはしないと誓います。」
流璃子は、その言葉を聞き、ホッと胸を撫で下ろし、
そして、強張っていた体から力が抜け、一気に疲れが押し寄せてきた。
『ふぅ、良かった。一時はどうなるかと思ったけど、
  パパ、ママ? 私、頑張ったよ。負けなかったよ。』
流璃子は両親の願い通り、これからも普通の女の子として生きていけることに
この上ない喜びを感じ、また、自分の勇気ある気丈な行動に満足して、
安心しきった緩んだ顔で、暫く、ベルゼバブを見つめていたのが、
この後、言われたベルゼバブの言葉を聞き、すぐにまた顔を引き攣らせるのだった。

「貴方が私の誘いに乗らないなら、無理矢理、我々のアジトに連行し、
  忠実な兵士として教育するだけですから。ホホホホホッ!」
鬼哭一族の血の力に全く目覚めていない流璃子の目にも、
この時、ベルゼバブの体中から黒く炎のように立ち昇る瘴気がはっきり見え、
目の前に立っているだけで、
体が粉々に砕かれ崩壊していくような絶望的な恐怖を感じる。
「それじゃあ、行きましょうか?」
ベルゼバブがそう言って、手をもう一度差し出すと、
流璃子は、甲高く醜い悲鳴を上げて玄関の方に逃げ出した。
「イヒィィィィィ! た、た、助けてへぇ~! だ、誰か。誰かぁ~! 助けてェェェェ!」
流璃子は全速力で走っているつもりだか、体には力が入っておらず、
左右に大きくフラフラと揺れ、普通に歩くより遅いくらいであり、
また、気持ちだけは必死に前へ進もうとするから、
まるで溺れているかの様に息を乱して喘いでいて、
流璃子の逃げる姿はこれ以上ないなど惨めで不様だった。
ベルゼバブは、追おうとはせずに、
ただ流璃子のその美しさのかけらもない姿を眺めてほくそ笑んでいた。
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